横ノリがええど

毛ガニを食べて怪我した人、怪我人wwwwwww

 

ほ〜んまやかまし


という事で君らはどーせ冷めた目で俺を見るんやろ、笑えや、笑ってよ、笑って欲しい、お願い笑って❤️ ←要望の四段活用

 

 

という事で、という事でが2回になってしまいましたが脳内にある考えの言語化やっていきましょうか、何も考えてないので理解できないのは悪しからず。sorry(そーりー)

 

--------キリトリ--------

まぁ、本当に何も考えてないからダラダラ手を止めないことだけ考えてタイピングしている訳ですが、何について書きおこうか

 

音楽がいいかな、って今思った

ので、音楽についてにしましょうかね

 

音楽っていつからあんだろなー、木や石を叩いたり言葉を使っていると自分が生み出すリズムの存在に気がついて発展していったのかな

 

なら音楽が先で言葉が後かもしれない、いや言葉そのものが音楽なんだ なるほどね

 

 

音楽って精神作用が強いですよね

やっぱり刺激だから思い出とも深く直結してるんだろうな

 

でも音楽って言ってるぐらいだからトラウマとは直結させたくはないよね、アラームに設定したらどんなに好きでもその曲を避けるもんね

 

 

俺も実際にOne direction のBest song ever を中学時代の受験期に設定してたおかげであんまり聴かなくなってしまった 好きだけど

 

 

あとね、そーいえば何だけど俺最近は縦ノリの音楽しか聴かなくて気分がアガらん

やっぱり自分、横ノリのがあってんのかなって

 

縦ノリと横ノリの違いは、イメージ的には縦ノリは強弱を様々な楽器で補ってるのに対して横ノリは強弱をほぼボーカルが補っているって言うのが一番近いのかなぁ

 

まぁ違いはほんとシンプルに歌詞の強弱なんですけどね

 

残念ながら日本に横ノリの音楽はあんまりないし、ヒットしても一発のイメージがあって、例えば青山テルマさんの「そばにいるね」とか

 

そばにいるね (feat. SoulJa)

そばにいるね (feat. SoulJa)

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あとはBONNIE PINKさんのA perfect skyとか

 

A Perfect Sky

A Perfect Sky


あ、あとクリピーさんの新曲のあれとか横ノリだよね

 

Bling-Bang-Bang-Born

Bling-Bang-Bang-Born

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縦ノリならラッドとかback numberでも聴いておけばそれが縦ノリです

 

日本に横ノリの文化があまりないのは五・七・五文化だからとも言われてますね

 

詰まるところ発音に強弱が無いからとも言われてますね、横ノリを考えるよりも縦ノリを考えた方がきっと音楽が作りやすいんですよ

 

それと日本はガラパゴス化とも言われますが、国内での音楽市場が十分だったことと、グローバル化以前にそれが完成されたために完全に日本人のみをターゲットにしていたとも考えられますね

実際にK-popアメリカやアジアをはじめとする世界にターゲットをして流行っている。ありゃ横ノリだよ、あんまり聴かんけど

 

あー、あと横ノリは踊りたくなる事に対して縦ノリはぴょんぴょんしたくなるか首をぐるぐるしたくなるか死にたくなるか、そう、俺死にたいんですよ

 

 

 

 

 

 

 

えーーー、そんな時に俺を救ったのはガガ様でした。聴いてください、  

           Born this way_____

Born This Way

Born This Way

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*俺の性的自認は東大医学部なので頭悪いです

 

 

勘違いしないで、男ですゆ

 

 

 

息子(43歳ニートより)

になりたいかって聞かれた時に、「好きな人の身体の一部」って答えたのね。特に脳みそ。脳みそになるってことはその人になることとほぼ同義だから。あとなりたいものではないけれど、好きな人の髪の毛とか爪とか食べたいし、汗や涙を飲んでみたいと思ったの。っていうか今も思ってるんだけどね。とまあこんな感じで「身体」と言うものに固執してきたわけ。でもふと思ったのが、その人になった(あるいはその人の一部を自分の体に取り入れた)ところで、その人を愛することにはならないんじゃないかってね。俺の「その人になりたい」って言う気持ちは身体的な粋に収まらないって思ったの。多分その人を愛したいんだよね。俺が求めていたものはつまり、その人になりつつその人を愛したいってことなんだ。そうだとすれば何になる必要があるんだろう。多分それは自尊心なんだよね。これは自己愛と言ってもいいかもしれない。肉体と心は遠くて近いから肉体になるってことは心になるってことだし、その逆もまた成り立つと思うんだ。だから心になれば「その人になる」っていう課題は完全に近い形でクリアできて、「自尊心」になればその人を純粋に愛せるわけ。

なぁ、俺は自尊心になりたいよ。好きな人の自尊心に…

 

 

いきたいという気持ちは誰にも負けません

なんだか無性にfuck you !

we will Rock you!

この思い空に届けlyrics for you_______

 

 

 

キモ過ぎる語り口からこんばんは。

深夜のテンション朝まで上げてけrockn roll radio こと、hi-fi3:21 ch の時間です。

 

本日のお題は、、、、、

 

天国!?それとも地獄!?

教えて閻魔大王様!私の死後!

 

はい、ということで「人間は死んだ後どこへ行くのか」と言う人類の絶える事ないこの疑問に、本日のラジオ終盤、今回特別に閻魔大王様がゲストとしてスタジオに登場し、リスナーの中から抽選で1名の方に!なんと、天国行きか地獄行きか占って貰います!!応募受付メールアドレスは、www.hhpp///.hifi321.co.jpでございます。

 

 

---------キリトリ---------

 

と言う事で、長すぎた前置きはさておきまして、、、、、

 

 

私はなぜ生きてるのだろうかと言う疑問に一終止符を打っておこうかと思いましたり

 

 

流石に思いを鮮明に申し上げてしまうと解明度が高くなってしまうため、遊びをつけて抽象的に、暗号の羅列で置いておきます。

 

 

 

・依存、

    維持

    社会

    富名声

    夢、自己実現

    酒、ギャンブル、タバコ

 

全て同じ、人間であれば願い

 

 

傲慢だけど、運命だと思えばそれも有りで、人間は素直に臭みを受け入れれば良いのにと

 

人生の短さに気がついた時には手遅れだったって、気がついた時にはきっと病院のベットの上で、でもそれはそれできっと幸せなんだなと、

 

じゃあ自分はどうなのかと、約束された安定は不安定だけど手に届くところにあったと、

明日生きてる可能性が100%で無ければ、安定を求めて今を生きてる事は逆に不安定な事なのではないかと、

これに気がついた。考えに性差はあるだろうが、この性に生まれた以上、

狩猟 or 農作 での二極化ならどちらをえるかと、

 

どっちも取ってやるって思った。

と言うより全て

主観的にも客観的にも全てを知りたいと、理解してみたいと、天国に行くデメリットは何もないのかと、地獄は本当にイメージする地獄なのかと、

 

知りたい

それを実現するためには何を捨てるのか、どんなリスクを背負うのか、想像はできるけど

 

リスクを負ったとて、思い出になってしまうと考えると多少のストレスがあった方が面白くなと、そうで無ければ意味無いと、

 

 

2023年はそれが実現できてきて、ぶっ壊して壊せた

 

2024年以降、テーマ、続けること、考え続けること、日を浴びる

 

 

 

----------キリトリ---------

 

 

さて、ラジオも終盤になってまいりました。

と言うことでいきましょう!

本日のスペシャルゲスト!閻魔大王様の登場です!!!

 

 

 

って、あ、、

はいっ!申し訳ございません。閻魔大王様は世界的な重要人物が沢山逝くもんで、処理が忙しく来れなかったようです。

また、閻魔大王様からメッセージを受け取っており、それを代読させていただき、本日は終わらせていただきたいと思います。

 

 

皆様が死ぬ頃には天国のキャパはパンクするので、自動的に地獄行きです⭐︎

 

               えんま より

 

 

 

ナポリタンはクソ不味いってあと何回言えばわかるんだ

どうも、最後に記事を書いてから1年が過ぎました。

軽いタイムトラベルってやつですかね

 

 

当たり前ですが、この一年間でいろいろあったなぁと感嘆の声が歯に沁みる所存でござります。

 

 

その色々とあった背景に欠かせないのが、そう、それ、人間でありまして、

やはり生きるということは人間と共存することでして、

つまり何が言いたいかと申し上げますと、私には思い出がたくさんあるということですね。

 

 

今、ふと思ったのですが、一年間で新しく出会う人間の数はどのぐらいなんだろうなと

数えてみましょう

 

えぇと、かんちゃんに、改に、ゆずに、、、、切がないですね

 

 

一緒に過ごした時間が1日以上の人、またはそれに相当する思い出がある人を数えてみます。

 

ざっと85人でした。多分それ以上だと思う

 

 

あーあ、今年は何人に新しく出会えるのかな!!!!!

 

 

 

ってなわけで、本題はここからでございます。

キリトリ

 

 

ナポリタンはゲロ不味い

本当だからだ。

 

なんでケチャップを炒めるんだ。茹でた後のパスタと一緒に火にかける愚行。味、手間、見た目全てにおいて最悪な料理だ。

 

ぱさぱさのパスタを誰が食べようと思うのか

 

 

俺が作ったナポリタンは違う?

 

 

いや、違わなくないね。ナポリタンを完成させた時点でそれは等しくナポリタンであって味の違いが分からない私にとってはそれは悲しみと絶望の料理そのものである。

 

ので、口にしないことは決められている。

 

 

もう面倒なことはやめて素直に塩コショウとオリーブオイル(なければサラダ油)をかけて提供してほしい。さらに言えばキューピーのパスタソースがいい。

 

 

それはそれで、なんで自称料理が上手で自分の作った料理を食べさせたがる男はキモいのか。

 

 

物凄い嫌悪感を覚えるんですよね。

提供されたら不味いなんて言えないじゃないですか、大して美味しくなくても美味しいって言うしかないじゃないですか、てか作ってもらう(頼んでない)時点で「美味しい」って言葉を強要されるじゃないですか。

 

それで気持ちよくなっている奴が許せない。

それで変に自信をつけられても困る。

 

 

 

人類は何年間料理をしていると思ってるのか問いたいね。

料理を馬鹿にしているのか?料理できて偉いじゃないんだわ。

平均的な知能が備わっていたら料理なんてできんだわ。

 

 

俺の作った料理だから美味い?

馬鹿垂れが。たまに作ったぐらいで調子乗るな。

 

申し訳ないけどお前が作った料理vsミシュランシェフが作った昆虫食の究極の二択を迫られたら断然私は後者を選ぶね。

 

 

 

何も分からないまま

どうも、噛めば噛むほど味が出てくるとかって言うよく分からない表現をする能無しのお前ら君たち。

 

どう考えても初手の匂いと感じた刺激しか感じてないだろ好き。

 

 

先日、老人が死んだ。

死因はそれぞれだが、私がトリガーを引いたのは間違い無いだろう。

 

 

2人の老人に共通して言えることは、どちらも新聞の寄稿欄に掲載されていた。

 

 

1人目の老人は新聞の寄稿欄に「文化の否定」を揚げていた。

 

最近のメディアは道徳的にどうなのか、から始まり、SNS、若者の流行についてつらつらと恥じらいもせず論じていた。

 

 

言わせて貰えば、それはただお前自身が時代について行けず嫉妬をしているだけだ。と思った。

 

ので、私はその人の住所を調べ、訪ね、問いただす中でこう言った。

「そんなお前はいつ死ぬの?」

 

 

老人は発狂をし、搬送された。

 

 

数日後にまたその家の前を通ってみると、2つの淋しい提灯が玄関の前に置いてあった。

 

 

 

2人目の老人は「戦争」について否定をしていた70後半の老人だった。

 

 

言い分はこうだった。

「孫世代に経験をさせたくない。世界平和を祈っている。」

 

馬鹿が。クソがよ。って思った。

 

 

お前は戦争を経験していない。経験したのは敗戦後の貧困という2次被害なだけだ。

予測不可能な未来を不幸という2文字で片付けたいだけの脳なしのセリフだと思った。

 

 

実際に第一次世界大戦で終わることができなかったこの世界における反戦論は異端でしかなく、日本もそれは例外ではない。

 

 

だから訪ねてこう言った。

「お前はいつ死ぬのか」って。

 

老人は発狂し、縁石に頭をぶつけて息を引き取った。

 

 

 

それはそうと、私は今学童保育に左遷されてもうてます。

 

体力的には厳しいけど、狭っ苦しい事務仕事よりガキに触れ合う方が楽しい。

 

 

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ガキの笑顔のためにシロツメグサの冠も頑張って作りました。

 

 

 

全てフィクションです。

 

 

 

 

 

 

人間

 

ゴーギャンの作品に「我は我は何処から来て何処へ行くのか」というものがある。

 

私たちは当たり前のようにそこに存在し、一般的に未来という不確定なものへ向かっているとされているため、このような疑問符なしで伝わるような、自分に問いかけて自分で答えを出すべき問題にぶつかる。答えがでようがでまいが。

 

 

 

愚か者が言う「社会」というものに出てみて早数ヶ月。周りの「先輩」という肩書きを背負った人々を見て思うことが私にはある。

(そもそも人間はいついかなる時でも社会に属しているため、働きに出ることだけが社会では無いし、学生が社会人じゃ無い理由にもならない)

 

 

 

 

先にその一般的に言うであろう「社会」と言うものに出たとされる輩は言う。

「有給は権利だ」と。

 

これは私の直感ではあるが、そのように言う人々はどこか心に隙がある。その人の一番弱い部分を刺激したら簡単に壊れてしまうと思う。

硝子と形容するのも、儚いと形容するのも言い得て妙なその人々はどこか欠落している。人間として欠落していると思わざるを得ないのだ。

 

 

ゴーギャンの「我は何処から来て何処へ行くのか」という作品はゴーギャン自身の遺書のようなものであるとされている。

故に今、この時をを生きる人にとっては無用な問題提起に過ぎない。

 

ゴーギャンは未来に、死んだ後の世界と言うものに期待しているにしか過ぎない。一種の希望的観測で死の恐怖を克服しようとしているだけだ。

 

 

いま私たちにあるものは「今」でしか無い。過去などどうでもよく、未来なんて無い。

 

 

私たちが「明日」という不確定な未来を生きる事を誰が許したのだろうか。

 

 

自分が許しても、特定の誰かが許しても、それを許さない人がいる可能性は捨てきれない。

 

 

 

それでもなお自分とは何か、私たちが何処から来て何処へ向かうのかを気にする人がいる。

 

 

暇なのだろう。その人は純粋なのだろう。自分の生命に何か映画やドラマで観る華やかな「生」を望んでいる、いや、期待しているのだろう。

 

 

その人は「許された」世界でしか生きていけないのだろう。

 

 

 

自分が生きる事に、自分の幸福を追求する事に誰の「許し」が必要なのだろうか。

 

 

「権利」というもので自身を正当化しないと許されないとでも思っているのだろうか。

 

 

人間は何処まで行っても人間だ。

 

 

相対する人には「心」と言うものがあり、また自分自身にも「心」と言うものは存在する。

 

 

であれば、全て対等であるべきである。

地位や名誉も、役職も関係ない。人間は何処まで行っても、どう足掻こうが人間だ。

 

 

 

人は社会に生きると言う。

 

 

人生を生きると言う。

 

 

何を持って社会とするのか、何を持って人生なのか。

 

 

それは今を生きる自分全てだと思う。

どんな家族構築なのかをはじめ、どんな友人関係、どんなコミュニティに属するのか。

 

 

 

つまり、今を生きるということは「役割」に徹すると言う事に尽きる。

 

 

 

自分で求めるのも、相手から求められるの全て含めて「役割」だ。

 

 

自分のために、あるいは相手のために今何をするべきなのかを考え、実行する。

それが「今」を生きると言う事であり、それこそが「役割」だ。

 

 

自分のためを思う事はそれこそ生きる理由だし、自己愛だ。自分を愛さないで他人を愛そうとするのはただの逃避行動だ。

 

相手のために何か考えて行動すると言う事、助け合うという精神はヒューマニティーそのものだ。偽善であれなんだって人の為を思って行動するのは心地がいいものだ。

少なからずそれを良しとした自分が報われるはずだ。

 

 

 

幸せとは自分だけのためのものでは無い。かと言って誰かの為だけのものでは無い。

 

ならば自分が幸せな時は誰かの幸せを願ってやれよ、誰かを幸せにしないなら自分が先に幸せになってろよ

 

 

 

人間は人間の作ったであろう権利や義務の範疇でしか行動ができないのか。

 

 

社会規範や道徳は共有されるべきものであるが、最終的な判断は個人の倫理に委ねられる。

 

 

ならば自分が信じた世界は存在する。

永遠が無いからこそ今の自分の「役割」を探し、見つけ、それを自分が信じた通りに全うするだけだと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

成田発 ukiyo行き

 

地面に足をつけて生きている皆さんこんにちは。

お久しぶりです。こちらは元気です。

 

 

 

地面に足をつけた生活に憂いているなら、少しは浮いた生活をしてもいいじゃないか

 

 

 

 

 

はい、今私は憂き世に生きていて、まさに私の世界は晴れ間のない雨季真っ只中です。

 

 

 

どんよりどんよりしてもうてます。

 

 

ってことで成田発 鬱行きの本機は間も無く離陸いたします。シートベルトをしっかり閉めて、心臓の弱い方は本機に偶然ご搭乗なさっているお医者さんを予め見つけておいてください。

 

 

 

 

------キリトリ-----

 

 

最近「サクラ」を見ました。私は花より団子なので花見をしていたわけではありません。ドライブをしていた時にたまたま偶然に今年初の「サクラ」を見ました。

 

 

以前の私なら感受性豊かで、いくら花より団子でも花を愛でるとまではいかずとも、季節のあれこれを感じることぐらいは出来たことでしょう。

 

 

しかし今年の私はどこか違っていました。もちろん世間は変わりゆくもので、勿論私も変わっていくものですから「違う」という事は当たり前なわけなのですが、自分の感情に自分自身が違和感を覚えたのです。

 

 

違和感の正体は未だに分かりませんが、自身の感情は「恐怖」と言ったものが近いかもしれません。

 

 

そうなのです。私はサクラを見て「怖い」と思ったのです。不思議と怖いと思えば思うほどサクラの桃色が恐ろしくなり、嘔吐きました。

 

 

 

過去の誰かが言うには、「桜の下には死体が埋まっているから恐ろしい」のだそうです。実際、この表現は言い得て妙だと思います。また、春という皆が一新する生活に自分一人だけがついていけない事への憂いをサクラに添加しているだけの様にも思えます。

 

 

にしてもあの桃色は薄気味が悪い。あの桃色に包まれてしまったら異界へ行ってしまうような気がします。引き返すことの出来ない何処かへ。

 

 

 

サクラの下に死体が埋まっていようが埋まっていまいが、以前のように須らくあるがままのサクラを鑑賞することは出来なくなりました。

 

 

おそらく肩の荷が降りないから憂いて這いつくばって地面にしか目が行かないのだと思います。

 

だから翼でも生やして浮いてみようかなと。

 

 

 

 

 

 

現地「鬱」は悪天候のため当機の着陸地点は別のどこかに変更させていただきます。