緊張状態を“生存実感”だと学習してしまった成人男性の心情、つまり私のKO☆KO☆RO

待ちに繰り出し、人と触れ合うと、人を観ていると、この人はどんな動機で、何のために在るのか知りた過ぎる

 

一人ひとりに伺うことはできないので、妄想の域を出ることは無いが、おそらく繰り返されている日常というものはミクロでは確かに変化の毎日だが、マクロでは止まっているに等しく、そんなんでドーパミンやらアドレナリンやら出るのか勝手に心配になる

 

かくゆう私も快楽物質が足りてないことを自覚しているからお節介にも人の心配をしているのだろう

 

 

振り返るとストレスの多い生活を送ってきていた

繰り返される毎日を当然のように送っていたが、その日常の中にはプレッシャーで溢れかえっており、スリリングだったなと回顧する

 

そんな綱渡りのような生活では、1日の終わりでも緊張の糸は決して緩むことなく、1日を乗り切った安堵と、不安定な明日を憂う二律背反で出来ていた

 

 

「もう情緒不安定な日常じゃないと生活できない身体になっちゃったねぇ」

 

 

何かに恐怖していると、鼓動を感じ、心臓の場所を確かに知るが、ぬるい生活では心臓の場所はおろか、呼吸をしていることすら感じず、生を実感していない、そんな内省をする

 

 

多忙な生活から一転し、暇に忙しい日常は思っていたよりハードモードで、明確な目的を探さなければNPCレベルに成り下がる

 

 

どうぶつの森を例にすると、現在の私はタヌキへの借金返済を終え、次何やろうか右往左往している状態だ

 

何するにも自由は自由ではあるが、想像力、創造力のなさゆえに暇を謳歌することができない

 

嗚呼、暇を楽しみたい

 

そんな反省をしている

 

夜桜は不気味に笑う

紳士淑女の皆さん、こんにちは、植物草木を愛でていますか?味わっていますか?

 

我が祖国を三年ほど離れ、この麗らかな季節を目前にし、私は感動している。

澄み渡っている青空、色々な香りを運ぶ豊かな風、旬の幸、登下校するエネルギッシュなガキ、、、すべてがふつくしい、そう感じている。

 

 

ただ一点、夜桜が怖い。

桜は美しいし、開花をみんな待ちわびているものだし私だってそう思う。

しかし夜桜は不気味に、不敵に笑っているように思える。

 

 

私たちは桜の開花前後に合わせて、終わり、始まり、また終わりへと向かう。

桜は新たな始まりの最初の終わりであり、永遠などないと私たちに知らしめる。

 

 

私たちはいつか終わると知ったときから終わりは始まり、それを悟っては急き、焦り、多くを見逃してしまう。

 

 

桜は暗闇でもひとりでに命を燃やすように咲くが、急くことなく、私たちの意に介さず、散ることをいとわずに構えている。もはや畏怖の念を禁じ得ない。

 

 

桜は「永遠」がないということを教えてくれるが、同時に「美は永遠」ということを教えてくれる。

散るという一点が美しいというわけではなく、それまでの過程の一貫性や威風堂々たる精神性が美しいのだと、そう思える。

 

 

 

 

 

会いたい人

今一番会いたい人は誰ですか?

 

俺には会いたい人が3人います

 

 

まず1人目は、I.R.さん

 

私が小1の時の小6のひとでよく遊んでもらいました。

その人が卒業して以降今まで一度も会ってません。

知り合い伝いで近況を聞くことはたまにありますが、当時お世話になったことの感謝と、もらったスパイダーマンのストラップを未だに持っていることを伝えたいです。

心当たりがある方は連絡ください。

 

 

2人目は、T.Y.さん

 

俺が小6の時の小1で、単純にどんな人になっているか知りたい。今どんな事を話すのかも気になる。

当時のあなたは源義経とコビト図鑑にハマっていましたね。

心当たりある方は連絡ください。待ってます。

 

 

3人目は、H.M.さん

学科は違ったけど同じ学部の同級生

 

アクキャリでグループが一緒だったり、心理学のテスト前の空き時間に、たまたま隣に座ってて勉強しながら話しました。

その時に「春休みにモロッコに行くんだ、死んで帰ってくるかもね」と俺が言ったら、「そういう事言うのはやめなよ」と言ってくれました。

その後、テスト終わりに駅まで一緒にいき、色んな話をしましたね。今までの良かった思い出や嫌だったこと、駅まで数十分の距離でしたが濃い時間でした。その日は希望に満ち溢れていた気がして未だに覚えています。

 

コロナになり、学校に行く機会がなくなったり、当時突然LINEが消えてしまって、共通の友達もおらず連絡手段がなくなってしまいました。

 

あなたの価値観含め人生観、改めてどんな境遇で生きてきて将来に何を思うか全て知りたいです。

心当たりある方はぜひ連絡ください。

 

 

 

会えなくなってからじゃあ遅いのは確かだけど、生きているならまた出会えると信じて、出会えるのであればその努力は惜しまずに発信するという形で、一つここに書き残しておこうかなと思う次第です。

 

最高の体言止めを作りたい

「空に消えてった打ち上げ花火」


↑正味これを超える体言止めは平成以降まだ現れていない
美しすぎる、冬に聞いても花火の余韻が聴こえてる、一瞬の余韻が無限に連鎖してもはや走馬灯

 

----------キリトリ----------


どうも皆さんこんにちま、
和歌に興じて風流してまっか?

2月もそろそろ終わり、暖かくなり始めてますネ!
季節のかわり目です、春です、和歌日和です!!

 

ということで、最高の体言止めを作って、改めて令和に新春の風を吹かせてやりましょうじゃあないですか!!!

 


#体言止めとは
体言止めは、文章の文末を名詞(体言)で終える表現技法。文末の「〜です・ます」を省くことで、リズム感や余韻(よいん)が生まれ、その名詞が強調される効果がある。※グーグルより引用

 

 


まず題材となる体言を選んでいきましょうかね、

上記の説明にある通り、何か余韻が残るものがええですな、
かつ、“儚さ”を含んでいれば余韻なんてものはチョチョイのちょい

 


Let's go 

 


儚さと言えば、そう“三色団子”

  “喉の奥に消えてった三色団子”

↑余韻は後味、喉の奥で突っ使えて、お茶を飲んで後味がお茶になったと話題にwwwwwwwww

 

 

 

儚さといえば、そう“離任式”
   “行後に消えてった、新卒副担任”

↑卒業の感動が1年で辞める教師に全部持っていかれてプチどよめき
お元気ですか、西澤先生

 

 

 

儚さといえば、そう“春霞”

  “微睡みの 希望満ちたる 春霞”

↑春ってなんだかやる気出ますよね

 

 


春といえば、そう“朧月”

  “春宵の ぼやけた輪郭 朧月”

↑まさに春宵一刻、荒城の月ってかんじ〜〜〜

破滅を願う心

あんなに嫌いだった人、これ以上は自分が壊れてしまうと思い自ら離れた人がいる。

俺たちは紛れもなく部下と上司の関係だった。

 

俺はその人のことを憎んだ。

日常的なパワハラは別にどうでもよかったが、あの日あの人は俺の触れてほしくないところ、詰まるは逆鱗に触れた。第三者から見ると些細なことかもしれないが、俺は許せなかった。

 

初冬の晴れて空気の澄んだ、気温がましなぐらいに上がりそうな時間、日差しが眩しかった。血の気が引き、体温が低くなり、周りが白くぼやけていきそうな、貧血に似たあの感覚。今思うとあれは殺意だった。とどまることができて本当に良かったと思う。

 

 

でもいつか、次に目にしたときは彼の触れてほしくない部分に爪を立ててやろうと、それが無理ならば何か別のことをと考えていた。それは俺の一つの野望であり、生きることにもなっていた。周りにはもう気にしていないと嘯いていたが、眠れない夜に妄想の中でいつかの日を思い彼を痛めつけていた。

 

 

しかし、ここにきて彼の消息が分からなくなった。4月の写真には確かにいた。が、とある名簿からは名前が消えた。昔の同僚に聞くことも手だがそんな真似はしたくないと自尊心が許さない。

 

 

なぜ名前が消えたのか、妄想に妄想を膨らましてみるが行きつく先は悲惨なものだった。終わってしまったのだろうか。どんなであろうと俺に残されるものは虚無そのものだ。

 

 

虚無だけある。多分これこそ俺の傲慢そのものだと思う。

俺は彼の破滅を願った。だけど本当に破滅してほしくなかったと今になって気が付いた。

 

 

生きてほしいと思うことは必ずしも美徳ではなかった。苦しみ続けて欲しかった。

今の俺みたいなことを考える奴がいたからきっと地獄が生まれたんだろうな。

せめても死んだ後も苦しみ続けますようにという人々の願いが地獄を生み出し、自分を救済したかったんだろうな。

 

 

でも誰かの中では彼は天国へ行ったんだと考えてもみる。

そんなものだ。

 

 

彼が生きていようと死んでいようと、ありがとう。この気持ちに気が付くことができた。あなたの全てが嫌いと言うわけではなかったことにも気が付いた。だからいつかまた巡り逢いたいと思うし、文章にもした。あなたと生きた記憶をここに残しておきたいから。

 

 

 

 

 

朝晩の冷え込みが厳しくなってきましたね。

故郷の寒さを思うこの頃です。

さて、今回連絡を差し上げたのは他でもありません。さっこんんおエネルギー不足に一石を投じる妙案を思い付いたためなのです。

 

私は先日、大学のお手洗いにおいて排尿をしておりました。気温の下がる時期なのもあってか、排尿時にいつもより激しく体が震えることに気がつきました。体内の熱が尿という形で排出されるためにこの震えが起こるのです。この震えを、ひとまず❝おしっこブルブルエネルギー❞と呼ぶことにします。このおしっこブルブルエネルギーを使った発電を私は提案したいのです。

多くの場合において発電は、ある現象によって生み出されたエネルギーを、モーターやタービンを介して電力に変換することによってなされています。水力発電しかり、火力発電しかり...。これまで、おしっこブルブルエネルギーは誰も気にしないエネルギーでした。しかし、これからはおしっこブルブルエネルギーが次世代を担うことになるでしょう。

 

排尿は毎日誰もが行うことです。確実性の点から見れば、太陽光発電風力発電などの再生可能エネルギーよりも優れていると言えます。また、これは実際に女子に聞いた話なのですが、女の子も排尿時にぶるぶるするそうです。興奮しますね。つまり全人類がこの発電に関わることができるというわけです。大規模な施設を作らずに大規模の発電が可能になるということ、持続可能であるということは大きなメリットであると言えるでしょう。

 

ここで問題なのはセキュリティです。トイレ施設になるといえど、発電施設にセキュリティカメラを設けないわけにはいきません。特に監視カメラの設置は必須でしょう。そこで個室に数台の監視カメラを設置します。カメラで撮られていると知りながらのおしっこはどんな気持ちがするでしょう。

 

そうそう、最近盗撮モノのAVにハマっています。機会があれば吉澤先生もどうですか?^-^

何もない空間に向けてしゃべる。

FF0人の鍵垢でツイートする。なぜ自分はこんな事をするのだろう。

人の意見に目を向けることに疲れたのだろうか。あるいは自己完結すればそれでいいからだろうか。

 

この世には「虚無主義」という立場が存在するらしい。あらゆる物事や存在を否定し、全てを無価値とする考え方だそうだ。積極的に虚無主義に加担しているつもりではないが、片足を突っ込んでいるのは確かだろう。これは「どうせ死ぬのだから」という類の諦めではなく、もっと物事を俯瞰した上での諦めのような感じがする。

 

諦めにはいくつか種類がある。その一つが自分を守るための諦めだと思う。ぼくの諦めはまさしくこれだ。いつだって自分のために諦めてきた。その習慣が今のぼくを作っている。人間関係、進路、恋愛...。自分を守るはずだったのに、そのたびしっかりと傷ついてしまったことが諦めにさらなる勢いをつける結果となった。諦めが自己防衛の範囲を超えるまでに成長し、今はある種の希望であった“”に希望があるのかさえ怪しい。

 

そしてこうした文章に残しておくことの意味もなんら存在しない。