最近、某アイドルグループのある子にはまっていて、はまりすぎて何も集中できていない。卒論や日々の語学学習、やらなければならないことが沢山あるのに、その子を見るためだけになけなしのお金で登録したHuluばっかり見ている。それか1.75倍速のゆっくり実況in youtube
これは実にまずい。。。実にまずいモーションの繰り返しの日々。実らないと分かっているこの恋を続けるのか、もう10月だぞ、、
この恋のもやもやの輪廻から解脱するにはでぇぇんじきしかないだろう。修行だ修行だ、そうだ、でぇぇんじきをしよう。うん。
ということで、でぇぇんじきを開始することにした。
そして明日からでぇぇんじきを開始するにあたり、準備食としてお粥を食べた。
食べてる時に思った。「優しい味ってなんだ?」
よくお粥の味を形容するために「優しい味」というものを使う人がいる。
は?じゃあ優しい味があったら、厳しい味なるものがあるんですか?
あってたまるかクソがよ。確かに吐しゃ物はなんとも言えない味がする。実際に食べたくない。しかし、臭くて酸っぱいと形容できるだろうからそっちを優先して使うだろう。
では、激辛ハラペーニョはどうだろうか。確かに食べきるには厳しい道のりだ。しかしすでに激辛に言っているのに遠まわしに厳しい味と形容するのは卑屈がすぎないだろうか。そんな奴の性格が厳しい。
しかし考えられることは、お粥を優しい味と形容する人は虐待でもされて育った、ということだ。「お粥の味が病気の時に優しくされた記憶と強く結びついている」のではないだろうか。流石に病気の時にまで虐待する親は人間じゃない。病気の時まで虐待されていたらお粥はそれこそ「厳しい味」になるだろう。
だから親から病気の時以外に虐待されていて、病気の時だけ愛情を与えられた人がお粥の味を「優しい味」と形容していると推測することは容易である。Q.E.D
そもそもお粥は殺伐とした味でなければならない。そうでなければ修行僧が報われないのは自明である。味付けは塩、これだけなのに塩むすびやOS1が「優しい味」と形容されないのはあまりにかわいそうではないか。
これからお粥さんに対して「優しい味」と使った人にはそれぞれ小一時間づつ追求するようにしよう。もちろんかの有名なソクラテスが使った「問答法」で。
もしかしたら大宇宙の真理への扉に繋がっているかもしれない。
明日からでぇぇんじき頑張ります。。。