ゴーギャンの作品に「我は我は何処から来て何処へ行くのか」というものがある。
私たちは当たり前のようにそこに存在し、一般的に未来という不確定なものへ向かっているとされているため、このような疑問符なしで伝わるような、自分に問いかけて自分で答えを出すべき問題にぶつかる。答えがでようがでまいが。
愚か者が言う「社会」というものに出てみて早数ヶ月。周りの「先輩」という肩書きを背負った人々を見て思うことが私にはある。
(そもそも人間はいついかなる時でも社会に属しているため、働きに出ることだけが社会では無いし、学生が社会人じゃ無い理由にもならない)
先にその一般的に言うであろう「社会」と言うものに出たとされる輩は言う。
「有給は権利だ」と。
これは私の直感ではあるが、そのように言う人々はどこか心に隙がある。その人の一番弱い部分を刺激したら簡単に壊れてしまうと思う。
硝子と形容するのも、儚いと形容するのも言い得て妙なその人々はどこか欠落している。人間として欠落していると思わざるを得ないのだ。
ゴーギャンの「我は何処から来て何処へ行くのか」という作品はゴーギャン自身の遺書のようなものであるとされている。
故に今、この時をを生きる人にとっては無用な問題提起に過ぎない。
ゴーギャンは未来に、死んだ後の世界と言うものに期待しているにしか過ぎない。一種の希望的観測で死の恐怖を克服しようとしているだけだ。
いま私たちにあるものは「今」でしか無い。過去などどうでもよく、未来なんて無い。
私たちが「明日」という不確定な未来を生きる事を誰が許したのだろうか。
自分が許しても、特定の誰かが許しても、それを許さない人がいる可能性は捨てきれない。
それでもなお自分とは何か、私たちが何処から来て何処へ向かうのかを気にする人がいる。
暇なのだろう。その人は純粋なのだろう。自分の生命に何か映画やドラマで観る華やかな「生」を望んでいる、いや、期待しているのだろう。
その人は「許された」世界でしか生きていけないのだろう。
自分が生きる事に、自分の幸福を追求する事に誰の「許し」が必要なのだろうか。
「権利」というもので自身を正当化しないと許されないとでも思っているのだろうか。
人間は何処まで行っても人間だ。
相対する人には「心」と言うものがあり、また自分自身にも「心」と言うものは存在する。
であれば、全て対等であるべきである。
地位や名誉も、役職も関係ない。人間は何処まで行っても、どう足掻こうが人間だ。
人は社会に生きると言う。
人生を生きると言う。
何を持って社会とするのか、何を持って人生なのか。
それは今を生きる自分全てだと思う。
どんな家族構築なのかをはじめ、どんな友人関係、どんなコミュニティに属するのか。
つまり、今を生きるということは「役割」に徹すると言う事に尽きる。
自分で求めるのも、相手から求められるの全て含めて「役割」だ。
自分のために、あるいは相手のために今何をするべきなのかを考え、実行する。
それが「今」を生きると言う事であり、それこそが「役割」だ。
自分のためを思う事はそれこそ生きる理由だし、自己愛だ。自分を愛さないで他人を愛そうとするのはただの逃避行動だ。
相手のために何か考えて行動すると言う事、助け合うという精神はヒューマニティーそのものだ。偽善であれなんだって人の為を思って行動するのは心地がいいものだ。
少なからずそれを良しとした自分が報われるはずだ。
幸せとは自分だけのためのものでは無い。かと言って誰かの為だけのものでは無い。
ならば自分が幸せな時は誰かの幸せを願ってやれよ、誰かを幸せにしないなら自分が先に幸せになってろよ
人間は人間の作ったであろう権利や義務の範疇でしか行動ができないのか。
社会規範や道徳は共有されるべきものであるが、最終的な判断は個人の倫理に委ねられる。
ならば自分が信じた世界は存在する。
永遠が無いからこそ今の自分の「役割」を探し、見つけ、それを自分が信じた通りに全うするだけだと思う。