好き嫌い、好き、嫌い、好き、キラークイーン第三の爆弾 ~すでにお前の瞳の中に入っている~

やあ、便秘の方もそうでない方もこんにちは。

 

人には人の乳酸菌。私は橋本環奈の乳酸菌がいいです。

 

 

 

卒業のために必要なことが粗方終わり、暇を持て余している私ですが、暇すぎでどうでもいいことばかり考え、それについて調べる生活をしております。本当にくだらないことばかりですが、卒論のテーマをそのくだらないことにしてもよかったのではないかなと思ったり、思わなかったり。

 

 

例えば、「食文化において精液はなぜ使われてこなかったのか

 

私は大まじめです。

 

まず食文化の始まりは、食糧保存のための加工から始まったとされます。よくよく考えると精液は劣化が激しく、保存には向いていないということは承知の上です。(チーズのように加工できるかもしれないけど)

 

それを踏まえた上での疑問なのです。東北アジア遊牧民は馬の血を飲む。また砂漠地帯の遊牧民ラクダの血を飲む。そして日本や中国では臓物などといった、いわゆるゲテモノ料理を食します。ではなぜ、精液を加工して料理にしたり、食材にしなかったのか?という疑問が生まれました。

 

 

これで卒論書いたらおもろいでしょ。。。

 

 

まあ、そんなこんなで日々を疑問と過ごしています。

 

 

 

さてここからは、まじめな話をしましょう。‐‐‐キリトリ‐‐‐

 

 

 

ここからは一種の、私の哲学分野ですので悪く思わないで。

 

 

 

巷には、「好きの反対は嫌いではなく、無関心だ」という人がいる。

 

 

私は思った。    は?

 

 

花びらを一枚一枚、「好き、嫌い、好き、嫌い、、、、n」じゃなくて、「好き、無関心、好き、無関心、、、、n」←なんなん?????

 

 

なわけねーだろばーかばーか

 

 

「好きの反対は無関心」の下りの人の言い分は大体このような感じだ↓

 

 

嫌いであるということは、すでにお前の瞳の中に、お前の人生の中に入っていて、関心がある時点で二律背反。嫌いでも関心がある時点で好きなんだよ❤

 

 

いや、バイツァ・ダスト。決まったねぇ~~~

 

 

 

ん~何だろうこのジレンマ。気持ち悪いって言葉がよく似合う。うん、気持ち悪い。

 

 

そもそも、論点が違う。好きと嫌いについて考えているのになぜいきなり「無関心」といった言葉が出てくるのか。

 

 

 

あの、論点すり替えマジックやめてもらってもいいですか?(ひろゆk)

 

 

 

思うに、この「好き嫌い問題」を「好きの反対は無関心だ」と言っちゃうような人は無責任だ。何にもわかってない。「嫌い」っていう感情をないがしろにしている。

 

 

自分を大切にしてもらいたい。

 

 

 

私はどっちかというと、「嫌い」って言葉は肯定的な言葉であると考える。

しかし、必ずしも肯定にはならないことは確かで、「嫌い」を主観的に捉えれば絶対的な肯定表現であるが、客観的に「好き」と言っている者のが受け取ると、否定表現に変わってしまう。

 

その逆もしかりで、「好き」って言葉も肯定的にも否定的にもなる。「好き」と「嫌い」対義語同士であるならば、この否定肯定のリスクはどちら側にもあるということではないだろうか。

 

まあ、これが二律背反の所以であるなぁ

 

 

 

つまり、「嫌い」といった表現や言葉を無視することは己自身に無関心である証拠だ。

 

 

嗚呼、皮肉かな。自分に無関心であるということに気が付かないで、そーんな言葉使っちゃう。

 

 

 

おそらく、これは社会問題なのだ。

好きなものは好きと言っていい。だけど嫌いなものは嫌いと言ってはいけない

 

 

このような風潮が社会にある。

 

 

「好き」と「嫌い」で大きく二極化されてはないだろうか。「好き」ならそれは「絶対的な好き」で、「嫌い」ならば「絶対的な嫌い」のように言葉や表現が頭でっかちになって世間にまかり通っていると思う。

 

だから、「好き」がポジティブに、「嫌い」がネガティブになってしまうのではないだろうか。

 

 

 

もっとね、もっと細分化して考えた方がいいかもしれない。

このまま行ったら「多様性」ってのがどんどん窮屈になってしまうだろう。

 

 

 

例えば、好きな音楽アーティストがいたとしよう。だけど、そのアーティストを好きだと言ったら、そのアーティストが作った楽曲すべてを好きにならないといけないのか、ってことになる。

 

いや、chiぎゃうでろ、

このアーティストは好き、そしてこの曲は好きだけど、この曲は嫌い」でもいいよな。

 

 

あくまでこれは取っつきやすくて、多様性がある音楽分野を提示した例であるため、「好き」と「嫌い」が極端な話になっているが、そーゆーことなんですわ。

 

 

音楽分野は多様性が効いているから「好き嫌い」においては自由に取捨選択ができるけど、社会全体を見れば、「頭でっかちな答え」を要求されることは多い。例えば、左翼だ右翼だみたいな。だからこそ「嫌い」なものを「嫌い」と言えること、「嫌」なものを「嫌」と言えることが大事なんだ。

 

 

 

関心があっても無関心でも、時間は限られているからこそ、触れたものしか語れない。

つまるところ、大事なのは「好きなものを好きだと言って、嫌いなものを嫌いだと言える」ってのに重きが置かれると思う。

 

 

 

人生始まっちゃったなぁ。。。

 

 

 

 

あと、今日はソフィーの誕生日。おめでとう。